社会福祉法人 牧ノ原やまばと学園

心に残る思い出

  • [22] ミニぞうりのプレゼント

    Yさんは、入居後3年目位頃から、色とりどりのビニールひもを使って小さな「ぞうり」を編み始めました。5センチ弱の小さいぞうりです。

    訪問者のみなさんに贈ると喜ばれ、製作意欲はますますアップ。「ぞうり」は1万足を超えるまでに。

    2006年度には「交通安全のお守りとして役立ててもらえば」と、警察署に贈呈。2011年には、手作りの「ミニぞうり」は2万足を達成し、園内外の大勢の方々に喜ばれました。が悲しいことに、同年11月3日、病気のため急逝されました。

    実はYさんは自治会長を務めるなど、園内の誰からも信頼された人でもありました。

    草刈りや木の手入れなど率先して働いて下さり、彼の逝去後、職員一人分の働きをしてくれたと改めて感謝したのでした。

  • [21] 話すことも動くこともできない千奈津さん、詩を発表

    ケアセンターさざんかの通所生、鈴木千奈津さん

    小学3年生の時、脳の動脈瘤破裂で重症心身障がい者に。しかしお母さんの熱心な訓練により、手を支えると詩や絵を描けるようになりました。

    さざんかに来てから彼女の内的生活はさらに豊かになり、障がいをもつ仲間の代弁者として多くの詩を創作しました。

    2000年に17歳で肺炎のため急逝しましたが、彼女の作品は今でも人々の心を打ち続けています。

  • [20] 心の窓が開かれて(代表的な2人を紹介)

    Aさん

    他施設から転入

    ガラスを割るなど破壊活動が激しく、その損害補償額は年間100万円に。

    それでも全面的に彼を受け入れて接したところ、1年を過ぎた頃、突然破壊行為はやみ、今やすっかり落ち着いた状態になっています。


    Bさん

    精神科入院歴のあり

    スタッフの首を締めるなど、施設で共に暮らしていくには困難な人でした。

    しかし、医師は「病院よりもやまばとで暮らす方が良い」と主張。

    その助言に従い、5年間個室で特定のスタッフが対応、徐々に落ち着き、今では普通に過ごせるようになっています。

    お母さんの感激の涙に、スタッフたちは、援助者としての喜びを味わいました。

  • [19] 成人寮生8名、クリスマスに榛原教会で受洗

    成人寮生池谷高さん、坂下町子さん、名波初江さん、服部和恵さん、森田正志さん、山岸倭雄さん、町慎一さん、横田和子さんの8名が、20年余の教会生活を経て、ご家族の了解も得て、1997年のクリスマスに受洗。

    1982年に召された長沢牧師の姉、みぎわさんも、同じ教会生活をしていたので、存命ならこの中にいたのではと偲びながら喜び合いました。

  • [18] ぼくのもうひとつの我が家

    元園児の一郎さんは、施設生活2年余で養護学校へ転出しました。

    31歳の夏、お兄さんと一緒に海水浴へ来た時、学園を思い出し、「やまばと」「やまばと」を連呼。

    お兄さんは彼を学園へ連れて行きました。

    あいにく仲間は帰宅中で会えませんでしたが、一郎さんは建物の中を駆け走り、壁をなでたり、柱に顔をすり寄せて泣いて喜んだのでした。

  • [17] お母さん、安心してください

    いろいろな方が聖ルカホームを利用しています。

    母親以外と誰も接する事のなかった最重度の知的障がい者Aさんが入所した時、93歳になる母親は心配して毎日訪ねてきました。

    しかし、Aさんは予想以上に早々とホームに適応し、以後お母さんもあまり来なくなりました。

  • [16] 初めて空を飛んだ成人寮生

    やまばと成人寮開設15年を記念し、全員が飛行機に初挑戦して沖縄へ。

    これがきっかけとなり、5年後にも北海道へ。

    さらに、その5年後(25周年記念)にも、北海道へ飛行機旅行をしました。

  • [15] 素晴らしい出会い、二人の外国からのお客さま

    1987年にはジャン・バニエ氏(世界各地に点在するラルシュホームの創設者)が、1997年にはブラザーアンドリュー(マザー・テレサに協力し、男性の奉仕団を創設した司祭)が来訪。

    やまばと全員で大歓迎。

    「神の愛、人の愛」について、それぞれ、忘れられないスピーチをいただきました。

  • [14] 聖ルカホームで結婚?のお祝い

    高齢者の中にもアツアツのカップルが誕生。

    このことを熟考したスタッフのはからいで、内々の結婚?祝宴会を設けられ、尾頭付きの鯛が振舞われました。

  • [13] 国際障がい者年のため?外国から多くの実習生や来訪者

    1981年、カナダのラルシュホーム「シャローム」からスーザン・ジンマーマンさんが訪れ、やまばとホームに宿泊し、作業所などで奉仕。

    そのほかにも多くの方達が外国から訪れました。

  • [12] やまばと授産所で、パン製造スタート

    設備投資や技術面で「実現困難」といわれたパン製造が、東京の製パン会社社長・佐原真氏の協力により1980年に実現。

    浜松市の梅原武蔵氏寄贈による中古のパン燒き釜で最初のパンが作られ、今では地域の皆さんの食卓にのるようになりました。

  • [11] 通学問題と学園紛争

    1976年、地元小学校に園児数名を通学させる計画が、教育委員会の了解も得て進められていました。

    しかし、「一部の園児だけでなく全員を」と主張するスタッフも出て、住民の反発で計画は頓挫。

    施設内でも主義主張の違いが生じ、民主体制ゆえの苦悩を味わいました。

  • [10] 30年余に渡るボランティア音楽活動

    1973年、音楽を愛する若者たちが、東京・霊南坂教会で学園のためにチャリティーコンサートを開催

    以来、毎年開催され、現在に至っています。

  • [9] キャンプで成人寮の森田さんが行方不明に

    1977年「川根・少年自然の家」一泊キャンプの時、森田さんの行方がわからず大騒ぎになりました。

    地元消防団等の協力で付近一帯を捜索、幸いにも翌日には無事保護されました。

  • [8] やまばと学園オリジナルのオペレッタ上演

    1975年やまばとまつり…スタッフ脚色、作曲、振り付けの学園独自のオペレッタ「森の春」を発表。

    翌年は、地元・坂部の芸能祭で「四季の踊り」、1977年には「かぐや姫」、1978年には「白雪姫」など、オリジナルのオペレッタを次々に発表し、地域の皆さんにも深い感動を与えました。

  • [7] 長沢巌、ラルシュホームの見学に、カナダ、フランス、イギリスへ

    1974年、長沢牧師はジャン・バニエさんのお招きを受け3ヶ国のラルシュホーム視察

    祈りを基盤にした底抜けに明るい生活に感動し、3年後にやまばとホームを自ら始めました。

  • [6] 選挙権を初めて行使

    1974年の参議院選挙と静岡県知事選挙に、成人寮生の一部が初めて参加。

    選挙管理委員会の行き届いた配慮によって無事目的を達成しました。

  • [5] 早天祈祷会の始まり

    長沢牧師は施設運営のため、祈りの必要性を痛感していました。

    榛原教会が施設の働きを祈りをもって支えるというかたちで、学園内で早天祈祷会を始めました。

    当時は日曜以外の毎朝、6時半からでしたが、現在は火曜~金曜まで、朝7時からとなっています。

  • [4] 北アイルランドからの交換留学生、ジェーン・メルドラムさん

    1974年度AFS交換留学生ジェーン・メルドラムさんは、1月~6月まで土日を除いて毎日、焼津市からバスと自転車で、やまばと学園での奉仕を実践しました。

    彼女はこう言っています。

    「やまばとでの仕事は全部肉体労働で、勉強からのよい気分転換になるので好きです。やまばとの音楽も、やまばとの子どもたちも好きです。それは日本で『外人』ということを意識しないのは、この子ども達だけだからです。」

  • [3] リハビリ効果で、歩き始めた善之くん

    善之君は歩くことができない子どもでした。

    しかし、スタッフたちの熱心な機能訓練により立てるようになりました。

    1970年のある日、入浴中にパタパタと自力で逃げて行き、以来歩けるようになりました。

  • [2] 強力な助っ人「 榛原教会婦人会 」

    榛原教会婦人会は、ボランティア活動を通して、創設期のやまばと学園を様々な形で支えました。

  • [1] 「榛原町手をつなぐ親の会」、思想や信仰の違いを超えて結束

    1967年…「榛原町手をつなぐ親の会」結成。

    発足当時、キリスト教会の牧師、共産党の町会議員、そして二人の僧侶夫人たちと、思想も信仰も違う人々が集まりました。

    ハンディをもつ子らの幸せのために思想・信条の違いを乗り越えて協力し合ったのです。

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